私という現象

《私という現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)》

私という現象が一つの照明のようなものだとしたら、個々の照明の「ひかり」というものに質的な差はないということになりはすまいか。違うのは個々の有機交流電燈というハードの違いであって、電燈に流れる生体電気によって生じる光自体はすべて同質の「ひかり」であるというふうに。

このように考えることが何を示唆することになるのだろう。個々の「私」というものを、それぞれが大いなる一つの「ひかり」から発しているひかりの断片であり、それゆえ、他の断片との同類性を認識することで、他者との共感を育み、最終的に始原のひかりとの融合こそが救済への道である。。というような宗教的洞察だろうか。

この場合のひかりとは、魂という言葉と置き換え可能な概念とも思うが、結局のところ、それをひかりと呼ぼうが、魂と呼ぼうが、この賢治の詩は「私という現象」については何も語っていないのではないか。

この洞察は、「そもそも<自分>なんてものがなかったら良かったのに」とボヤく声を消し去ることはできない。

<わたしという一つの青い照明>が始原のひかりや他のひかりと形式的な同質性を持っていることの認識は、そもそもそのひかりのうちの一つがなぜかたまたま自分であったということの不条理性を解消することはない。