テレパスと神

真のテレパシーが不可能であることは、論理的に証明できる。
テレパスが他人の心を「感じる」とき、それを「自分の心で」感じるのでなければならない。
でないと、「テレパス本人が」感じたことにならないからである。
自分の心で感じている以上、他人の心を他人の心で「直接」感じることにはならず、
他人がその感じを「本当にその人自身の心で感じている」ことの証拠にはならない。
したがってテレパスは、他人の心を自分が感じたと確信することは絶対にできない。
テレパスといえども確信できるのは「自分の心」だけだ。これは心理的・物理的限界ではなく、「心」の定義から導かれる論理的必然性である。
三浦俊彦「のぞき学原論」三五館)

このテレパスによる他我の認識不可能性は、突き詰めれば、全能の神にも当てはまるのではないだろうか。
全能の神といえども、被造物のうちにいったん「心」というものを創造したら、被造物の「心」の感じている、痛みや喜びなどを直接見通すことは不可能なのではないか。
人は神に祈るとき、神は祈る者の心の奥底まで先刻お見通しであるというような言われ方をするが、それが不可能であるのは、神の能力の問題というより、「心」というものの定義からして論理的に不可能であるということ。

そして真の意味で「ひとの立場に身を置いてみる」ことの不可能性は、人間の行為の善悪を判定できる超越的視点の不可能性をも示唆しないだろうか。