福田恆存の合理主義

太宰治は恥でもないものを恥と仮説した。悪でもなんでもないことを悪とおもいこんだ。それゆえ、かれの十字架や神は、はなはだ低い位相に出現する。あたかも自然主義の作家たちが情欲を醜悪と見なすことによって、低級な精神主義を発想せしめたのと似ている。もし十字架や神がぼくたちのまえに、出現すべくして出現するならば、それは神を否定する徹底的な合理主義を前提としなければならない。」(福田恆存芥川龍之介太宰治」)

福田恆存の太宰に対する評価はともかく、「もし十字架や神がぼくたちのまえに、出現すべくして出現するならば、それは神を否定する徹底的な合理主義を前提としなければならない」という福田の考えは「私の幸福論」にも見られる姿勢である。徹底的な快楽主義的生き方をまず肯定した上で、その快楽主義のどんづまりに立ち現れてくる「神」を浮き彫りにするという戦略。

「私の幸福論」中の「性について」で、一人の人間の中には性的放縦への欲求と拮抗するかたちで貞操への欲求があると福田は想定しているが、はたしてそうだろうか。そういう両方向に引き裂かれる欲求が福田の中にはあったのかもしれないが、だからといって、そのような拮抗する欲望がすべての人間の無意識に存在するということにはならないだろう。(あるいは胸に手をあててよーく考えてごらん式の神秘主義。)

福田が取り上げている性や家庭の問題は結局のところ個人の「趣味」の問題か、(小谷野敦が「軟弱者の言い分」で述べていたように)「体力」の問題に還元されると考えたほうが「合理的」だということになりはしまいか。つまり一夫一妻主義は一夫多妻を実行する体力がないだけだと云うような。福田恆存は「徹底的な合理主義」に到達する前に後退しているのではないか。

倫理や道徳の根底にある「〜すべし」は宗教などの超越的な後ろ盾がなければ、最後の拠り所として、個人の幸福の実現にとっては、そうしたほうが幸福になれるという功利主義(あるいは快楽主義)に行き着くしかないだろう。しかしそこで理想とされる幸福のかたちとは、それもまた一つのフィクションであるか、一種の個人的な宗教ということになる。