存在論的な孤独

わからない、理解できない、ということには孤独感がともなう。
疎外感といってもいい。

世界の存在に疑問を持ち、その疑問は最終的にわかりえないようなものであるなら、
やはりそこにも孤独があるように思う。

世界と、世界に対して問いを持つ自分との間の越えられない溝として、わかる、という参入の仕方が許されないまま、問う者は孤独であり続けなければならない。

神、という言葉に意味があるとすれば、神は問いを持つ者への答えを持っているか、あるいは神自身が問いへの答えである必要があるだろう。

この存在論的な孤独は、社会的な孤独と重なっている場合も多いが、
もちろん他者とのコミュニケーションの問題ではない。
社会的な孤独を慰める手立てはいくらでもあろうが、存在論的な孤独への処方箋は、
何かに没入することで問いを忘れることか、あるいは、世界に対して同じ種類の問いを持つゆえの孤独を感じる仲間の存在を知ることで多少は慰められるかもしれない。

存在論的な孤独者同士の連帯。それは同病相憐れむというかたちをとるだろう。