愉しむ才能

「そう言ってから八戒は、自分がこの世で楽しいと思う事柄を一つ一つ数え立てた。
夏の木蔭の午睡。渓流の水浴。月夜の吹笛。春暁の朝寝。冬夜の炉辺歓談。・・・
何と愉しげに、また、何と数多くの項目を彼は数え立てたことだろう!殊に、若い女人の肉体の美しさと、四季それぞれの食物の味に言い及んだ時、彼の言葉はいつまで経っても尽きぬもののように思われた。俺は魂消てしまった。この世にかくも多くの愉しき事があり、それをまた、かくも余す所無く味わっている奴がいようなどとは、考えもしなかったからである。
なるほど、楽しむにも才能の要るものだなと俺は気が付き、爾来、この豚を軽蔑することを止めた。」
(「悟浄歎異」中島敦

ああ俺もこれからはこの世の愉しみだけを数え上げながら生きていこうと思う時もある。
しかしこの八戒の享楽主義の底にも「不気味なものの影」がちらつくことがあるわけで、
それはきっと八戒もまた「これですべてなのか?」という問いを持っているからなのだろう。