不条理感覚な映画など

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」「ダークシティ」「トゥルーマンショー」・・・
(これに「マトリックス」一作目の前半までを加えてもいいかもしれない。)

これらの映画に共通するテーマをどう云えばいいだろうか。
擬似現実、仮想現実、ヴァーチャルリアリティ。
こういったSF的用語ではこれらの映画に潜在的に感じる問題意識がうまく掬えない気がする。
これらの映画には共通して一種の形而上学的問題といってもいいような感覚があるのだが、その感覚をどう表したらいいだろう。

世界の夢を見ている(あるいは見させられている)培養器の中の脳という思考実験がある。
培養器の中の脳が自身の置かれている「現実」に気づくことはありえるか。あるいはそう疑ったとして、その疑いが現実であると証明することは可能だろうか。
別の現実に「覚醒」したと思っても、それがまたもう一つの夢でないという保証はなく、その疑いは無限に後退する以上、最終的な「リアリティ」というものに到達することは原理的に不可能だ。
マトリックス」の場合に哲学的問題が含まれるとすれば、つまるところ、この培養器問題に収斂されるだろうが、他の三作の場合はどうか。

トゥルーマンが自分の住む現実が擬似現実であることに気づき、擬似人工世界のドームから外へ踏み出たとき、その外の世界がもう一つの擬似現実ドームの中である可能性もまた否定できず、これまた培養器の脳と同じく、リアリティの無限後退に陥る。(「ビューティフルドリーマー」のラストはまさにそのことを暗示していた。)

しかしこれらの作品に感じる形而上学的問題は「真のリアリティの到達不可能性」というものとも違うような気がする。
そこに意味深いと感じるものがあるとすれば、真のリアリティへの希求が問題なのではなく、
それがどのようなSF的ファンタジー異世界の形式をとるのであれ、そこには存在宇宙の奇怪さ、たとえそれがどんな世界であったとしても、そもそも存在というものがあり、その世界の中に目覚めている「わたし」がいるという不条理さに対する、ぼんやりとした自覚、といったものが根底にあるように思われる。

それはカミュが「シジフォスの神話」で書いたような、この世界の存在と「わたし」とのあいだに生じる不条理な意識の発生といったものの物語的翻案であるとも云えるのかもしれない。

ノヴァーリスは「夢の中で夢を見ていることを自覚したとき、それは目覚めに近い」という趣旨のことを書いているとどこかで読んだが、
この存在宇宙の夢から覚めるということが果たしてあるのかどうか?
「死んだら驚いた」―というのは丹波哲郎大霊界2」の副題だが、死んで「大霊界」に目覚めた場合、大霊界という、現世とは存在形式を異にした別種の存在(?)界と「わたし」の間にはカミュ的な不条理の意識は発生しないのだろうか?