奇妙な形而上学のコレクション

マーティン・ガードナー『哲学的駄文書きの疑問集』からの引用。

「数学者のI.・J・グッドが『科学者は思索する』という、”生半可なアイディア”を集めた愉快なアンソロジー本の中で、生れ変わりモデルの奇妙なヴァリエーションを提案している。
グッドはそれを”もしその理論が真実ならば、それを信じることが不可能な理論”と名づけた。それは次のようなものである。

我々は天国で犯した犯罪のために、刑罰としてこの地上に流刑されている。そしてその刑罰の一部は我々がこの理論を信じることができないということだ。
というのも、もし我々がそれを信じられたなら、その刑罰は効果的ではなくなってしまうだろうから。」

信じられないこと自体がその理論の真実性に貢献するという、これは一つのパラドックス(というよりジレンマ?)だが、こういう形而上学的思い付きというのはSFやファンタジーのアイディアにもなりそうで面白い。
(この地上は魂を陶冶するための修行の場であるとかいう話は何かの説教話でも聞いた覚えがあるから、発想としてはさほど珍しくもないか。)

もっと奇妙なのは、本書の別の場所で紹介されている論理学者スマリヤンの提唱する説だ。

「もし存在というものが、それらが認識されていないときに限って存在する、というような性質を本当は持っているとしたら愉快ではないだろうか?すなわち、存在が見たり、触知されたり、聞かれたりしていないときにのみ、存在は完璧に存在している、しかし、いったん存在が知覚されるやいなや、存在は存在することを止めてしまう。それらはそのときあたかも存在しているように<現れる>のだが、しかしその<現われ>はただの幻覚に過ぎない。
この理論のもっとも愉快な点は、こういう宇宙が論理的に可能だということだ。」

これなどはいかにも論理学者のひねり出しそうな屁理屈というか、ほとんど量子力学のパロディのようだが、多解釈的探偵小説における「論理的にはこうも考えられる」という一つの推理のように、「世界」というこの不可解な現実というものと向き合ったさい、セオリーというものは論理的に無矛盾な形で際限なく構築できることへのアイロニーとしてなかなか面白い。

この宇宙、この存在世界の根本的な成り立ちがそもそもどういうものなのか、だれにもわからない以上、亀や象の背中に乗った宇宙のイメージから始まって、意思的な選択が行われるごとに無限に分岐していく平行世界や、この世界はコンピュータによって作られたマトリックスで私は培養器の中でこの現実という夢を見ている等々、これからも奇妙な形而上学が無数に生まれ、語られていくのだろう。