末期の眼

「特別なきっかけもなく脈絡もなく、ふだん心を占めている関心や問題が脱落した折りに、われわれの胸の中をどのような風がよぎるものか。もし、われわれから家族・金銭・地位・つきあい・衣食住・趣味・主義・宗教その他、あらゆる人生の詰め物を抜き取ったならば、そのあとの残骸とでもいうべき丸裸の「いのち」はこの宇宙でどう感じ、どう生きたらいいのか。このような困難に対する処方は、古来ただ一つしかなかった。すなわち、可及的速やかに元の境地に戻ること、たとえば手近な課題に取り組むこと、これまで同様の日常生活に埋もれてしまうことなのである。そうすれば、慈悲深い死がわれわれから意識や思考を取り去ってくれるまで、余計なことを考えずに済む。
 もし、われわれが機嫌良く生きているという状態が、こうした「人生の詰め物」で時間を埋めているだけのことであるなら、われわれの心は瞑目したまま人生を駆け抜けているようなものである。問題は、仮にわれわれが途中でそのことに気づいて心眼を開けたとしても何も良いことはない点なのだ。これまで、あらゆる宗教は目を開けた人間の前に極彩色の絵巻物を広げてみせただけである。・・・」(「わたし、ガンです ある精神科医の耐病記」頼藤和寛 文春新書)