存在論の不思議病

「物理学者が、最終的にすべての基本的な波動と粒子、すべての基本法則を発見し、それらすべてを一つの方程式に統合した(表した)と仮定しよう。
では、なぜその式なのか?
いま流行の説によれば、ビッグバンは、空間も時間もない真空におけるランダムな量子の揺らぎから起ったとされている。しかし当然ながら、そのような真空は、「無」からはほど遠いところにある。
量子の揺らぎを起こすには、量子についての法則がなければならない。では、なぜ量子の法則があるのか?
たとえ量子力学が、さらに包括的な理論(それをX説と呼ぼう)の一部として"説明された"としても(アインシュタインは最終的にそうなると信じていた)、私たちは次に、「なぜXなのか」と問うだろう。
そう、超究極的な問いから逃げる道はない。なぜ、完全な無ではない何かがあるのか。なぜ、その何かはそんなふうにつくられているのか。最近、スティーヴン・ホーキングが述べていたように、「そもそも、なぜ宇宙などというものが存在するのだろうか?」
 これは明らかに絶対に答えられない問いであるが、情緒的には無意味ではない。この問いについて深く考えれば、いずれウィリアム・ジェームズが「存在論の不思議病」と名づけた病に陥るであろう。
ジャン=ポール・サルトルはそれを「吐き気」と呼んだ。幸い、そのような反応は長くは続かないが、そうでない場合は、やはりジェームズが言った「究極的な"なぜ"の毒気」を思いきり吸い込んで頭がおかしくなる可能性もある。」

(マーティン・ガードナー「インチキ科学の解読法」)

存在や宇宙を有らしめる究極の第一原理(それが何らかの法則であれ、神であれ)に辿り着いたとしても、そもそもなぜそんな原理(≒神)が存在するのか、という問うてしまう「なぜ」の病い。これが無限遡行に陥るだけの虚しい思考法だとして、しかし、そのような問いを持ってしまうことは「情緒的には無意味ではない」とガードナーは言う。これは問いとしてはナンセンスだが、そう問うてしまう心情はわかる、という意味だろうか。それともその情緒にはなんらかの価値があるという意味だろうか。

現状認識

深い、と思うものも、つまるところ現状認識という点で透徹した眼差しを持っているに過ぎないというパターン。

それは問いに対する答えではなく、まず問題そのものの認識であり、それがどういう種類の問題なのかについて、の卓抜な表現だったりする。

そうそうそう、そうなんだよ、それが一番問題なんだよと相槌をうつものの、それは問題の存在の再確認だけで、問題の解決には一歩も近づいてはいないという。

哲学や思想の営みとは、畢竟、微に入り細に穿った現状認識であるのかもしれない。

(詩が現状認識の直観的表現だとすれば、哲学はその認識の精査である、というような。)

世界で最初の言葉

「顔を顰め、むずかつている赤ん坊が、若しその理由を云いきり得たら、それは世界で最初の言葉だ。」 (「死霊」埴谷雄高)

「ところで、この世に生まれ出たそのとき、私たちはなぜ泣いたのであろうか。残念ながら、私たちのおそらく誰もが、そのときの心持ちを思い出すことはできないであろう。 もちろんそれは、はじめて空気に触れたときの、不器用な呼吸音にすぎないものではある。だが、少なくともそれが私たちのこの世界に対する最初の挨拶であったとすれば、その根底には、この世界そのものに対する私たちの先入見なしの無垢な了解がひそんでいたに違いない。 私たちが全くの白紙の状態でこの世界に初めて向き合ったときの感じ方、それが赤ん坊の泣き声にあらわれているのではないか。胎内の混沌たる一が、私とこの世界という二に分節する、その始原的な光景の機微が、赤ん坊の泣き声に含まれていたのではないだろうか。」 (「神道の逆襲」菅野覚明)

不条理と神秘

人間が何の理由も無く突然生まれ、消滅する世界だったらどうだろう。
それは不条理というものである。

性というものが新しい生命を創造することの神秘も同じことだ。
細胞が老化し、やがては死滅することの神秘も同じことだ。

それがなぜだかはわからない。「そういうふうにできている」というしかない。

しかし人はそれを不条理とは言わず、神秘という。

不条理と神秘を分けるものは何だろう。

不条理にはわからないものへの不安、孤独、焦りがある。
神秘には謎に対するくつろぎがある。

不思議という感覚

「ああ不思議だな」
私は口先だけで言った。言ってから、不思議という言葉の意味について考えた。たった今自分の口から出た不思議という単語に、私は何の感慨も込められなかった。そもそも私は、何かを目の前にして心を動かされるという習慣がない。たとえそれが何であろうと、見た瞬間なんて何も感じはしない。何か感じるとしたらずっと先で、思い出して駄文を書いているような時だ。」
島田荘司「魔神の遊戯」)

こどもというのは大人よりも自明の物事に対して不思議さを感じる、つまりこどもは天性の哲学者というような言われ方をするが、自分がこどものときは、この島田荘司の小説に出てくる男のように、世界のありように対して、何の感慨も持たずに受け入れていたような気がする。ラブクラフトではないが、もっとも原初的な感情としての恐怖というのは様々な事柄に対して感じてはいたものの、世界で起こっている事柄に不思議を感じるようになるには、ずいぶんと知恵がついた後だったように思う。こどもは何か珍しいものがあればじーっと見つめる。しかしそれはただ目を惹きつけられているだけで、案外そこにセンスオブワンダーはないのかもしれない。とすれば世界の不思議の発見というのは、未知のものとの遭遇ではなく、既知のものの再発見という手順を踏むのではないか。